  | 第1,3,5木曜日午前は西宮市立中央病院で内視鏡治療の機会をいただいています。本日は西宮Hの症例で、近くのクリニックで2003年にEMR切除した胃角後壁の遺残再発病変、および新たに見つかった胃角腺腫、計2病変のESD切除でした。遺残再発病変は胃角ラインではありますが大彎寄りであり正面視が困難で、強く押し込めば反転でも捉える事ができましたので、少しずつ内視鏡の組み立てを調整しながら切除しました。幸いEMR後瘢痕は軽度でしたが大彎寄りでしたので脂肪に難渋しました。新たに見つかった胃角腺腫は遺残再発病変に隣接する形で認められました。
11時前に同病院を発つ事ができましたので、徒歩で阪急門戸厄神まで行き、阪急電車でクリニックへ。本日午後は予定変更となり丁度、スケジュールが空きましたので、来週22日(木)の講演準備&松村歯科受診に充てることができました。 http://www.hotelmonterey.co.jp/cgi-bin/portal/cms/banqhall.cgi?hid=monkob&code=75 さらに帰路は17時にクリニックを出て阪神尼崎のサンシビックプールへ立寄りました。Total immersionのレッスンを数回受けさせていただきましたが、3月までは新長田のマンボープールでお世話になりましたが、この度閉館となり、箕面観光ホテル隣接の箕面温泉スパガーデンに戻る事になったようなのですが、private lessonを行う余裕がない可能性があり、レッスン使用出来る公営プールを探している一貫でサンシビック尼崎プールが浮上したためでした。 http://jpn.coresv.com/tiswim.jp/ http://www.aspf.or.jp/suncivic/ http://www.minoo-onsen.co.jp/hotel-minoo/ http://www.minoo-onsen.co.jp/spa_garden/index.html サンシビック尼崎プールは、阪神尼崎駅南西すぐにありますが、一帯は寺院が多数あります。これは戸田 氏鉄(とだ うじかね、1576年(天正4年)3月 - 1655年3月21日(明暦元年2月14日))が、尼崎藩主の時に、各地にちらばっていた寺院を集めたことによっており「寺町」として現在まで続いている事を示す掲示板がありました。
戸田 氏鉄:安土桃山時代、江戸時代前期の武将(大名)。近江国膳所藩第2代藩主、摂津国尼崎藩主、美濃国大垣藩初代藩主。大垣藩戸田家2代。膳所藩初代藩主戸田一西の長男。母は真木氏常の娘。正室は戸田康長の娘。戸田氏嫡流とは縁戚で戸田家の宗家にあたる戸田康長の娘婿にあたる。三河国二連木(現・愛知県豊橋市仁連木町)生まれ。徳川家康の近習として仕えた。文禄4年(1595年)10月21日、従五位下采女正となる(後に従四位下)。慶長8年(1603年)、父・一西の死により家督を継ぎ、近江国膳所藩の藩主となる。元和2年(1616年)、膳所から摂津国尼崎藩へ移封され、寛永12年(1635年)7月28日、尼崎から美濃国大垣藩10万石へ移封された。1641年、徳川家綱の誕生に際しては臍の緒を切断する箆刀の役を担当している。 幕府に対しては1624年の大坂城修築、島原の乱においての戦功などで奉仕する一方、藩政においても新田開発や治水工事などに大きな成功を収め、大垣藩の藩政を安定に導いた。また教育にも力を注ぎ学問を充実させた。慶安4年(1651年)11月28日に隠居した後は、入道して常閑と号した。明暦元年(1655年)、80歳で大垣において薨去。薨後、家督は長男の戸田氏信が継いだ。
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